「パワーポイントによる死」から脱却する

ガー・レイノルズのシンプルプレゼンを読んで、プレゼンテーションについて思うことを少し。

ガー・レイノルズ シンプルプレゼン

ガー・レイノルズ シンプルプレゼン

書評?

 内容はまた別の機会にまとめるつもりだが、今まで読んだプレゼン本の中で一番すっと入ってきたことは間違いない。DVDもついているせいか、プレゼン本としては3000円弱とちょっと高めではあるが一読の価値がある。

パワーポイントによる死

 本書の中で「パワーポイントによる死」という言葉が出てくる。これはいわゆる「箇条書きを多用した複雑なスライド」を表現している。Macな人は「キーノートによる死」とでも言い換えればよいだろうか。文書を書くときには極力相手に読ませず箇条書きで端的に、なんてことは多くの人が一度は言われたことがあるだろう。が、はからずも同じ概念をプレゼンに持ち込むことが多いように思う。文書は読み手が対象なのに対して、あくまでプレゼンは聞き手が対象である。「聞き手」であって「読み手」ではない。にも関わらず「読み手」を意識した手法を用いれば、もちろんそのプレゼンは退屈なものになってしまう。じゃぁ「聞き手」を意識した手法って具体的には・・・というのはまた今度。

「パワーポイントによる死」はなぜなくならないか

 多くのプレゼンは「パワーポイントによる死」の状態を迎えている。そしてさらに量産体制にすらなっているといっても過言ではない。それはまぁ私も含めて同じである。でも「ジョブズのプレゼンは凄い」とか「オバマ大統領は演説が上手い」とかよく会話になったり「スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン」が周りでも読まれているくらいなのできっとプレゼンを良くしたい/ジョブズのようにという気持ちはみんなが持っているのである。ではなぜプレゼンは良くなっていかないか、それは「レビュー」に原因があると思っている。
 多くの人は、上司に出来上がったパワポのレビューを受けるだろう。そこにジョブズや最近のゲイツ(昔のゲイツはそうではなかった)のように「画像」や「シンプルな文字」だけが並んだものだったとしたらどうだろう。きっと「前提は何?」、「もっと少ないページで簡潔に」と言われるのではないだろうか。「伝えることは明示的に(見やすいように箇条書きで)書く」というのが文化として刷り込まれていると、もはやその素晴らしい(かもしれない)プレゼン資料は「死」に向かって修正されていくに違いない。この現象を防ぐために、もう最初から「死」を選ぶことは往々にしてよくあることだ。レビューという関所を通すために「死」を選ぶという本末転倒なことが行われるわけだ。

「パワーポイントによる死」が出来上がるのは必然

 実際、本当に素晴らしい資料であったならば、「画像」や「シンプルな文字」だけが並んだものだったとしても伝わるのかもしれない。でもきっと最初はそうはいかないだろう。そうなるともう実際にプレゼンを聞いてもらうしかない。早い話が「レビューをデスクのみで行う」という行為がそもそもプレゼンのレビューとして適していないことに気付かなければならない。いや、実は多くの人は気付いている。でもそれは時間の設定、場所の確保、機材の準備などなどめんどくさかったりするので見て見ぬフリをしているだけではないか。そしてその結果、机上レビューでOKを貰うためには(文書のように)「パワーポイントの死」を選ぶ他はないのである。これが「死」を選ぶ必然と私は考えている。

「パワーポイントによる死」から脱却するには

 自身のプレゼンを変えるには自身が変わりながら前述のようにプレゼンを通して訴えていくしかないように思う。しかし、文化とか色々なものがあって早々にそういったプレゼンが受け入れられること自体難しいかもしれない。それは世の中の多くのプレゼンがそうなのだから仕方のないことだ。でもそれでも自分のプレゼンをジョブズに近づけたい、と思うならば方法はいくらでもある。ひとつは、勉強会を利用することだ。仕事ではない勉強会などでは自由にプレゼンができる。そこで変わりたい方向に自分の力を少しずつ積み上げていくわけだ。上司がなかなか効果を理解してくれないなら、自分が慣れてきたところでその勉強会に招待すれば良い。業務ではないところでチャレンジをすることに対しては上司は痛くも痒くもないので快く受け入れてくれるに違いない。百聞は一見にしかず、上司に限らずそうしたプレゼンを何度も身近に見ることができれば若手や同僚のプレゼンも変わって行くだろう。そうした思いをもってまず自分が「パワーポイントの死」から脱却する道を選ぼうと思う。