ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく

 さて、今年も残すところあと2日となった。今年は色々なことがあったが概ね静かな一年で新しい行動を起こせなかったことは反省すべき点である。理由としては管理職への昇格試験があってその準備に一時期追われ、その準備期間に本を読んだり自己啓発をしたりとすることが激減し、そのまま惰性で2ヶ月を過ごした、というのが現状だろうか。そんな今年の最後のブログはこんな本で締めくくろうと思う。

 言わずと知れた堀江さんの本である。結構、本屋にも平置きされていたりするので手にとったことがある人は多いのではないだろうか。この本は何気に読み始めたが今年一番の本だった。収監されて人は何を感じるのか、「反省」ということではなく、何もなくなったときに自分はどうするだろうか、ということを考えさせられる本である。あっという間に読めるので、特に来年どうしようか、と思っている人は一年の計を立てる前にこの本を読んでみるといいかもしれない。ではいつもどおりキーワードベースに。

新しいことをしようとする時は条件はみな同じ

 色んな人が新しい第一歩を踏み出すのは間違いないが、それは新人であっても管理職であっても変わらずに怖いものだ。誰かに反対されたらどうしよう、誰も賛同してくれなければどうしよう・・・そんな思いが一歩を阻害していることは間違いない。

人が新しい一歩を踏み出そうとするとき、次へのステップに進もうとするとき、そのスタートラインにおいては、誰もが等しくゼロなのだ。

新しい一歩というのは周りから見るとそうでもなくても、本人にとっては一大事業なのだ。スタートラインにたとうと思ったことだけで尊敬に値すると私は思う。そして、実はスタートラインに立った人を見ている人も実はその人がどんな道を走り抜けるのかは分からない。だからもうここは精神論と考えた方がよい。えい!ってやってしまった方が良い、準備はそのあとで良いかな、と思う。

言葉だけでは人を捉えられない

 このブログでも何度も言っているように、私も含め多くの人は総論賛成各論反対の立場を取る傾向にある。特に日本人はそうかもしれない。下手をすれば言いだしっぺすら各論反対に回る可能性すらあるww 堀江氏はその善悪は関係なく行動の人であり強い口調で論ずることがしばしばあるが、それについてこんなことが書かれている。

、理詰めの言葉だけでは納得してもらえないし、あらぬ誤解を生んでしまう。そればかりか、ときには誰かを傷つけることだってある。僕の考えを理解してもらうためには、まず「堀江貴文という人間」を理解し、受け入れてもらわなければならない。言葉を尽くして丁寧に説明しなければならない。その認識が完全に抜け落ち、多くの誤解を招いてきた。これは最大の反省点である

言葉を尽くす、私にもっとも欠けている部分かと思う。確かに人は見ているということもあるが、目的のためにはきちんと丁寧に説明すべきなのだ。正しいからいつか分かってくれる、ということもないこともないかもしれないがこの忙しい時代にそんなに丁寧に人を見ている人はなかなか多くはない。特に上にいけば行くほど理解しておかなければならないことだろう。

もし、あなたが「変わりたい」と願っているのなら、僕のアドバイスはひとつだ。 ゼロの自分に、イチを足そう。 掛け算をめざさず、足し算からはじめよう。

そう、急に大きな存在にはなれないのだから自分の2歩目を踏み出せるための1歩目はどんなレベルなのか、それを見出すことが先決だ。仮に大きなことをやりたいと思うのなら、そのことに辿りつくまで具体的に何歩に刻んでいくのか、それが現実的な計画であり一番の早道と言えるだろう。それはこんな言葉で語られている。

そして経験とは、時間が与えてくれるものではない。 だらだらと無駄な時間を過ごしたところで、なんの経験も得られない。 なにかを待つのではなく、自らが小さな勇気を振り絞り、自らの意思で一歩前に踏み出すこと。経験とは、経過した時間ではなく、自らが足を踏み出した歩数によってカウントされていくのである。

「ノリのよさ」をポジティブに受け取る

 自分は自分、そう思っている人ほど変われないものだろう。私もそのひとりであるが、「ノリのいい人」というのは周りに一人や二人いるに違いない。自分はそういうノリの人間じゃない、そう思わずちょっとだけ、普段の自分なら選択しないことをやっていくと何か違う日常が待っていて何かが変わるきっかけになるかもしれない。そしてそれはチャンスにもつながる可能性を秘めている。とはいえ・・・と思うかもしれないが、そこにいつまでも考えていても何も始まらない。さすがにそこはチャレンジなのである。

小さな成功体験の前には、小さなチャレンジがある。 そして小さなチャレンジとは、「ノリのよさ」から生まれる。

「もらう」から「稼ぐ」へ

お金を「もらう」だけの仕事を、お金を「稼ぐ」仕事に変えていこう。

これは起業している、または起業したことのある人にとっては至極当たり前のことだと思うが、プロジェクトの歯車になっている間は実はなかなか感じられない。自分の何かが利益に直結するという数字を見たことがないからかもしれない。これはそういった数字を見る必要がない、見なくてもなんら支障が出ないからに違いない。数字を気にしながら日々を暮らすと辛くげんなりするような気がするが、どう売上を、利益をあげていこうかと考えることに少し違った興奮を感じる(嫌気がさすことの方が多いかもしれないが・・・w) ただ、「もらう」から「稼ぐ」に意識が変わると仕事の質は劇的に変わる可能性が高いので一度考えてみた方がよい。

クリエイティブな仕事!?

 クリエイティブな仕事がしたい、とはよく聞く言葉であるが、いざやろうとするとどれほどの人ができるだろうか。その真実、困ることになって、最終的にググることになったりはしないか・・w。そう、クリエイティブな考えや仕事は、やればできる類のものではない。そこには実は大きな勇気と覚悟が必要である。前例にないことをどう説明できるか、反対されても確固たる自身をもって推進できるか、それができる人は多くはないに違いない。結果、あまり説明しなくても楽な既存の方法に流れてしまう。とはいえ、10年以上もクリエイティブな仕事をしてこずにいきなりやれと言われても難しい。なので、本気の改善を繰り返して、少しずつそういった作業に慣れていくしかない。

マニュアル(前例)どおりにこなすのではなく、もっとうまくできる方法はないかと自分の頭で考える。仮説を立て、実践し、試行錯誤をくり返す。そんな能動的なプロセスの中で、与えられた仕事は「つくり出す仕事」に変わっていく

今の仕事が好きではない症候群

 今の仕事にやりがいが持てない、楽しくない、そうかもしれない。そう思う人はきっと多いのだろう。でもやってみたら楽しかったということは仕事に関わらず多いものだ。特にそんなのやりたくない、と思った遊びに没頭したような記憶はないだろうか。そう、何事も一生懸命やらなければ好きかどうかは実は分からないのではないだろうか。  

人は「仕事が好きだから、営業に没頭する」のではない。 順番は逆で、「営業に没頭したから、仕事が好きになる」のだ。

そう簡単に夢中にはなれるのならば苦労はしない、ごもっともである。ならば没頭するにはどうしたらいいのか、阻害要因は何なにか、を突き詰めていくしかない。それができないのは、私も含めて結局逃げているということに他ならないとは頭では分かっていることではないだろうか。

「できっこない」をうちやぶる

 これはもう引用のみで事足りる。そのとおりだ。

それでも、これといったアクションを起こさないのは、なぜか? 理由はひとつしかない。 最初っから「できっこない」とあきらめているからだ。(中略)やってもいないうちから「できっこない」と決めつける。自分の可能性にフタをして、物事を悲観的に考える。自分の周りに「できっこない」の塀を築き、周囲の景色を見えなくさせる。 だからこそ、次第に「やりたいこと」まで浮かんでこなくなるのだ。欲望のサイズがどんどん小さくなっていくのである。

これからの時代を生き抜く信用を勝ち取る

これからの時代を生きるあなたには、「お金」ではなく、自らの「信用」に投資することが求められている。ほんとうに困ったとき、人生の崖っぷちに追い込まれたとき、失敗してゼロに戻ったとき、あなたを救ってくれるのはお金ではなく、信用なのだ。(中略)ほんとうに自信があれば、どんな仕事に対しても「自分ならできる」という自分基準の判断を下すことができる。 ハッタリをかますこと、背伸びをすることは、決して悪いことじゃない。他者からの信用を獲得していくために、絶対に乗り越えなければならないハードルなのだ。(中略)80の力しかないのに100の仕事を引き受け、それを全力で乗り越える。すると次には120の仕事を依頼してもらえるようになる。信用とは、そうやって築かれていくものなのだ。

 自分基準の判断を下す、これはもっとも勇気と覚悟が必要である。信用を得るためのリスクとはこういうことも必要で、(失敗の有無は別として)こうしたことをきちんと乗り越えた人が信頼を勝ち取ることになるということだ。

自分の地力を底上げする

 私の来年の目標はここである。敢えて少し地味な一年にして地道な作業をしようと思っている。その結果として何かをカタチにする、それが私の第一歩なのだ。

もし、あなたが仕事で成功して、人生の成功者になりたいと思っているのなら、仕事術の本を読む前にやるべきことがある。 掛け算を覚える前に、足し算を覚えよう。他者の力を利用する前に、自分の地力を底上げしよう。同じ3を掛けるでも、23よりも53のほうが大きいように、自分が2なのか5なのか10なのかによって、結果は何倍にも違ってくる。ゼロからイチへ、そしてできれば5や10へ、自分をもっと積み重ねていこう。

そしてこれは注意事項としてw

常に新しい分野に目を向け、新しい出会いをつくり、新しい情報を浴びて、思考と行動をくり返す。止まることなく、休むことなく、動き続ける。 思考停止が持つ力を甘く見てはいけない。人は少しでも油断すると思考停止に足を踏み入れ、「ここでいいや」と安住の地を求めてしまう。

課題が難しい理由を考えてみる

 30代も半ばになると「このままでは・・・」という思いの苛まされることが多いはずだ。人生が前に進んでいなくでも時間は進んでいく、実に焦るが、一番怖いのは「まぁそういうもんだ、周りも変わらないし」と思ってしまう一瞬が来ることだ。それは痛風のように朝おきたらそう思ってるかもしれないと思うと恐怖に感じるものだが、そう悩まないようにするには結局決断するしかないのである。

どれほど複雑に見える課題でも、元をたどればシンプルなのだ。 シンプルだったはずの課題を複雑にしているのは、あなたの心であり、揺れ動く感情である。そして自分の人生を前に進めていくためには、迷いを断ち切り、シンプルな決断を下していく必要がある。決断できなければ、いつまでもこの場に留まり、「このまま」の人生を送るしかない。(中略)シンプルだったはずの課題を複雑にしているのは、あなたの心であり、揺れ動く感情である。そして自分の人生を前に進めていくためには、迷いを断ち切り、シンプルな決断を下していく必要がある。決断できなければ、いつまでもこの場に留まり、「このまま」の人生を送るしかない。

決断とは捨てること

 ここもログとして引用しておくので十分。

決断とは「なにかを選び、ほかのなにかを捨てる」ことだ。 あなたはAを選んだつもりかもしれないが、それはBやCやDの選択肢を捨てたということでもある。たとえその選択が正しいものだったとしても、決断には大きな痛みが伴うこともあるだろう。

やっぱり努力

 成功する人は努力している、これはもう疑いようもない。ただ、周りから見える苦労は違ったものであるかもしれない。例えばであるが「迷ったらアミダで決断する」という自分の心の中で決めたとしてもそれは他人からは分からない。その決断が結果的に正しければ正しいほど他人からは当たり前のように見られるものである。アミダで決めるというのは大げさな一例ではあるが、絶対に決断するということに対する思いを形する努力としてのアミダと考えればよい。笑い話にように聞こえるかもしれないが、実際にはどっちもホントに決断できないような選択を迫られることがなくはない。十分に情報を集める時間もない場合は、もはや感と経験と度胸なのかもしれないが、理由が見つからないならアミダで決めるという度胸もまた決断と言えなくもない。

人が前に進もうとするとき、大きく3つのステップを踏むことになる。  挑戦……リスクを選び、最初の一歩を踏み出す勇気  努力……ゼロからイチへの地道な足し算  成功……足し算の完了。(中略)でも、挑戦と成功の間をつなぐ架け橋は、努力しかない。

責任とは自由である

 大きな責任とは怖いものだ。誰でも怖い。できなかったら、期待に応えられなかったらどうしよう。私もそう思うことがしばしばある。

大きな責任を引き受けたときにだけ、僕たちは自由になれる。いまあなたが怯えている責任の重みは、そのまま自由の重みなのだ。 失敗なんか怖れる必要はない。僕らにできる失敗なんて、たかがしれている。 たとえ最大級の失敗が襲ってきてもマイナスにはならず、ただゼロに戻るだけだ。それは怖いことでもなんでもない。

確かに責任とはイコール自由なのである。不自由な仕事には責任がなく楽かもしれないが人は自由になりたいと不満がたまる。どちらがいいのだろうか。自分で敢えてその責任をつかみにいくのが怖いなら、最低でも与えられる責任を避けずにすることから始めるしかない。それも嫌なら不満との付き合いを大事にしていくしかないが、そこは人次第である。

何よりも形にこだわる

 「思いをカタチに」、これは近年、私も常に感じているし、後輩にもそういった話をする。ひとつ前に立ち上げて頓挫した勉強会でもこいったコンセプトでキックオフをした。が、これはなかなか難しい。

インターネットの普及によって、アイデアの価値はどんどん均一化されてきている。 アイデアは頭の中からひねり出す時代から、インターネットで検索し、組み合わせる時代になっているのだ。 そこで勝負を分けるのが、スピードと実行力である。 手持ちのアイデアを、いかに具体的な行動に落とし込めるか。そのために一歩踏み出す勇気を持ち合わせているか。 口先のアイデアを披瀝しても、なんら評価の対象にはならない。アイデアを実行に移し、誰よりも早くかたちにできた人だけが評価されるのだ。 飽きっぽい人の持つ「惚れる力」は、その突破口になる。 無節操だと批判されても、行き当たりばったりだと笑われても、勝手に言わせておけばいい。誰よりも早く動き出し、かたちにしてしまおう。

どんなに素晴らしい100のアイデアを持った人よりも、たった一つでも素人のようなコードであっても形にした人の方が、何百倍も信頼できる。それは他人から見た自分でも同じことだ。だから形にこだわっていくことは重要である。

何からはじめるか

 さぁ、2014年、何からはじめてみようか。こんな言葉を引用しておく。

どうやって最初の一歩を踏み出すのだろうか。ヒッチハイクからはじめてみるか、飲み会の幹事からはじめてみるか、さっそく起業に動きはじめるか、進む方向やスピードはどうでもいい。とにかく「ゼロのままの自分」に見切りをつけ、一歩を踏み出すことだ。

最後に

 書いてみると実に引用の多いブログになったが、それほど思ったことが書き綴られていたと言っていい。こういう本を堀江氏が書くということは、やはり迷って決断できなかったり、勇気が持てなかったりする人は山ほどいるわけだ。だから自分だけが。。。と悲観することは何もない。しかし、その状態が10年も続いているなら、きっとここに書いた内容は鼻で笑ってしまうのではないだろうか。でもそれは「もう今更・・・」という自分を取り繕うためではないかと思う。誰もが人から信頼を勝ち取りたいし、何かを成し遂げたいと思っているはずである。そのオモイに忠実に、実現するためには2014年、どんな一歩を踏み出すか、人それぞれ差はあるに違いないが、踏み出すか踏み出さないか、それは未来に大きな違いを生みだす。未来の自分に「こんなはずじゃなかった」と言わせないために。