努力が報われるまでの時間も努力のひとつ

「努力は必ず報われると私はこの人生をもって証明します」
AKB48総選挙のとき高橋みなみは言った。その強い意志をもった顔にはぐっとくるものがあった。

努力は本当に報われるか

個人的には報われる、と言いたい。何らかのカタチで。何らかのカタチで、というのは意味がある。それは努力が報われていることに気付かないことがあるからだ。多くの人は自分の思った形で報われて欲しいと思っている。それはきっと大きな報いのことだろう。でも多くの人はそんな報いは受けない。気付かないことも多いのだから「報われていない」と思うこともしばしばあることだろう。

努力に対するリターン > 0

の場合は報われているのだが、

努力に費やしたコスト > 努力に対するリターン > 0

の場合には多くの場合、報われていないように思える。それは十分に理解できる。なので理想系はこうだ。

努力に対するリターン > 努力に費やしたコスト > 0

ところが、大きなリターンを得るには比例して費やすコストも大きくなってしまうから皮肉なものだ。費やすコストに抜かれないようにリターンを確保する、それがどれだけ大変なことか。報われる努力を得るためにはまずこれを理解するところからはじめなければならない。

努力が報われるまでの時間

一方、努力が報われるまでの時間はどうだろうか。時に短い場合もあれば長い場合もある。一般的に大きなリターンを得たければそれなりの時間と労力がかかるものだ。しかし、「努力が報われない」とあきらめるなかれ、その前に考えるべきことがある。努力が報われるまでの時間も努力のひとつだということだ。この努力はなぜ報われないのか、と考えて設計しない限り、報われるまでの時間は他人に完全依存してしまう。もっというと、報われるかどうかすら完全依存な状態だ。要は、努力が報われたと自分が思う形になるように人を動かす努力を追加すればよい。もっと大変になることは確かだが、ぐっと報われた実感を味わうところには近づく。それでも結果として

努力に費やしたコスト > 努力に対するリターン > 0

となることは否定しないが、

努力に費やしたコスト ≧ 努力に対するリターン > 10000 > 0

とかなら目指すべき報われた感にかなり近いものになっているのではないだろうか。