ファシリテート失敗を人のせいにする未熟な自分との闘い・・・

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最近疲れていたと思いたい。疲れからくるイラつきか、イラつきからくる疲れかは分からないが、愚痴っぽい自分がいる。誰もが疲れているはずのこのプロジェクト、自分だけが疲れているわけではない、むしろ周りの方が疲れているに違いない。

 そんな日を過ごしながら、何だか漠然としか内容が分かっていない会議のファシリテートをすることになった今日、黙ってふったりしていれば上手く収まるかなぁなんて・・・甘かった。決まらない、終わりの見えない、判断材料がないんじゃないのかと思った、そんな会議。いつしか私はイラついていた。「決めるのは俺じゃない」「直近で困るのは俺じゃない」そう思っていたからね。そんな会議を何とか締め、席に戻ると上司に言われる。

「ちゃんとファシリテートしてくれないと・・・」

とね。イラつきが最高潮を迎えた瞬間、「実際に直近困る人たちが良いというならもういいんじゃないですか?」と言い返した自分がいた。その私のイラつきに笑ってくれた上司、あとから思えば私は反省するばかり。

このレベルでは内容の習熟度とファシリテートはそれほど相関関係がないことは知っている。要は、決めるべき人や困る人を言い訳にしているだけで、決めるべき人や困る人が決められるように困らないように場を上手く進めて、最適解を見出すお手伝いをするのもファシリテーターの役割、人の責任にしているようでは甘いどころか、恥ずかしい限り。上司がそんなことを言いたかったかどうかは分からないが、きっとそう思っていただろう。逆に上司に「ちゃんとファシリテートしてくれないと・・・」と言われなかったら冷静には考えなかったかもしれない。
 
 正直、自分の中では真正面から向き合ってこなかったファシリテーターというポジション、何となく持っている力だけを使ってこなしてきたファシリテーション、今いるポジションはその力を飛躍的にあげるチャンスなのは知っている、ならミッションを超えるところまで正面から向き合ってみようと思う(それもどうなのかとw)。ファシリテーターとしてのスキルをあげる機会が満載の明日をまた頑張ることにする。

稲森和夫さんは言っている。

リーダーには才よりも徳が求められる

私には才も徳も著しく不足している。そんなことを痛感して、また登る階段と対峙する4月10日。

ビジョンが部下には伝わらないという現実の受けとめ方

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少し前にhatenaでビジョンを部下と共有することはできないという前提で考えるという記事を読んだが、面白かった。

抜粋するとこのあたりが秀逸というか、結論じみているというか、未熟な私にはいわゆる世間に認められる優秀な他人でもこう思っているんだということで安心する部分でもある。

そういう状況を、僕は時々苛立たしく思うことがないと言えば嘘になる。何度言えば解るんだ、と思うこともある。でも真実は、何度言っても解るわけがない、ということだけだ。

けれども多くの場合は時間が解決する。いまは鬱陶しく思っていたとしても、その人物が真に優れた人物ならば、10年後、僕と同じ立場、同じ視座に立った時に初めて僕が今言っていたことの真意が理解できるはずだ。10年経っても同じ視座を得られないなら、そもそもそんな人物とビジョンを共有する価値はなかったのである。そう割り切るしかない。

新人にも、若手にも思いを伝えているつもりだけど、「あぁこいつは分かっていないんだな」という思うことが多々ある。でもそれは私と私の上司の関係でも同じことが言えるに違いない。つまり、上司のビジョンを私が理解できていないということだ(そもそもビジョンがないというのは論外だけれどもw・・・)。

というよりは、多くは「新人にも、若手にも思いを伝えているつもりだけど」という部分がそもそも怪しい。少なくとも私の場合は。プレゼンや文書は如何に他人に上手く伝えるか、を考えるのに、部下にはそこまで考えずにその場で思ったことをただしゃべる、伝わっていないことを嘆くよりも伝え方を考える方が先なのだと最近は思っている。(決して清水亮さんができていないということではなく、一般論と私個人のお話。)

要は「伝える側の責任」も考えなくてはならないし、それが仮に完璧だったとしてもなお(すぐには)部下には伝わらない」という現実を受け止めなければならないのだ。

上司としては歯がゆいと思うかもしれないが、この現実を受け止めた上でどうするか、それを考え続けられる人が将来的に多くの部下を従えることになっていることは揺るがない事実のように思う。

あの人に言っても仕方がない・・・

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今日hatenaで20代の社員に「アホは出口さんです」と言われましたという記事が上位だったので読んでみたら面白かった。ライフネット生命の出口さんと社員のやりとりというかコミュニケーションが書かれた記事なのだが、独特の社風が見て取れるし、理にもかなっている。

まずはこんな記述。

 60代の頭では、20代、30代のことが分からないのだ、と。当たり前じゃないか、と思われるかもしれません。けれども、私のようになまじひとつの業界で経験を積んでいると、自分の経験のほうを重視しがちになってしまうのです。
 ただ、コミュニケーション、とりわけウェブでのコミュニケーションは、その舞台での中心が20代30代です。だったら彼ら彼女らの文法に従うのが筋、というものです。

これは中々潔いというべきなのか、普通は「自分の経験のほうを重視しがち」になって当然である。若手に負けたくない気持ちもあれば自分の生きてきた道を否定されたくもないから。「顧客のことを考えろ」という上司は多いが、そうであれば出発点として「顧客に近い」人材の言うことを信じてみることが一つの選択肢ではある、ということに気づかされる。

もうひとつ。これはちょっと耳が痛いひとがいるかもしれない。

40代半ばから上の、会社で偉いポジションに就いている読者の皆さん。もし皆さんが、会社で「俺は聞いてないよ」という経験を何度もしていたら、それはあなたが、年下の社員たちに「あの人に言っても仕方ない」と思われている証拠なのです。

これはあると思う。下の人間も自分の意見を通すことに必死なことに違いはない。そうであれば話の分かってくれそうなところから攻めるのは当然である。ただ、日本はおそらくよくできた人材が多くて、「俺は聞いてない」を最後まで放置することは少なく、何らかの形、しかもその人の顔をつぶさないように後処理をすることもよくある話のように思う。そこまで深読みすると、気分は悪い状況ではなくても、後から聞くことが多いという人は「あの人に言っても仕方ない」と少なからず思われている可能性は否定できない。

『ビッグデータ』による変化とその備え

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ビッグデータの衝撃」を先輩に借りて読んだので、ざっくりとまとめと書評的なところを。

ビッグデータの衝撃――巨大なデータが戦略を決める

ビッグデータの衝撃――巨大なデータが戦略を決める

ビッグデータって大きいデータ!?

 そもそもビッグデータとは何か。本書では次の定義で書かれている。

既存の一般的な技術では管理するのが困難なデータ群

これは、データとしては従来よりも複雑な構造か、あるいは今までのクエリでは応答が返るまでに相当な時間を要するものと考えると良い。

ビッグデータの特性

 ビッグデータの特性としては以下の「3V」となる。

  • ボリューム(データ量)
  • バラエティ(多様性)
  • ベロシティ(速度)

 ボリュームは言わずもがなであるが、多様性として従来の販売データ/在庫データに加えて、通話履歴、SNSのテキストデータ、位置情報、センサーデータ、動画等々が様々なデータが対象となる。また、Suicaに代表される交通系ICカードが生み出すような発生頻度の高さ(データの発生・更新頻度)も特性のひとつと言える。

BI(ビジネスインテリジェンス)との違い

 ここでひとつ疑問が生じる。従来BIと言われた分野はなんだったのか。それと何が違うのか、と。これは結構人と話していても話題にのぼる。結論から言えば、BIはそもそも仕組みのことなので、ビッグデータとBIは1対1には語れない。BIと「ビッグデータの活用」は同じ概念と言える。要は、ビッグデータを活用した洞察の仕組みにビッグデータも活用する、ということに他ならない。そのため、BIはビッグデータにより進化を遂げると言って良い。今までの「過去・現在の見える化」に加えて、ビッグデータを用いた「将来予測」へ進化するというわけだ。

トランザクションデータからインタラクションデータへの変遷(点から線へ)

 データの活用は、点から線へ移りつつある。つまり、「モノが売れた」という点の情報ではなく、その背景や相互作用とつなげて考えることにシフトしている。具体的には、購買へ至るまでのプロセス分析等がそれに当たる。そのための必要な情報は膨大になる。
 また、注目されていることとしては、今までのウェブ上だけの分析ではなく、オフラインやO2Oでの分析である。これにより、Webと実際の行動との行動分析が可能になる。

ビッグデータのデータ処理基盤

 Googleが04年に発表したMapReduceという大規模データの分散処理方式の提言をフレームワークとして実現したHadoopが現在のビッグデータブームを技術面で支えている。Hadoopは膨大な量の非構造化データのバッチ処理に大きな効果を発揮する。
 処理を行う部分以外にも、データの保持として従来のRDBMSの課題である「スケールアウトの困難さ」や「構造化されていないデータの処理」を解決すべくNoSQLデータベースの誕生も大きくこのブームに寄与している。前もってスキーマ定義できないようなデータを蓄えるのがRDBMSに適していないことは明らかである。

現在保有するデータの活用

 とはいえ、企業は今までBIの名のもとに巨大なデータウェアハウスを利用してきたわけだが、それがまったく利用できずに仕組みが転換するという流れではない。従来のDWHユーザとしてどうビッグデータを利用するかという点では、Hadoopを活用して非構造化データを構造化した後で、それをDWHに取り込み、今まで通りSQLを使って分析するということが可能である。また、そうすることで今まで蓄積されてきた(またはこれからも蓄積される)構造化データとSNS等から得られる非構造化情報を組み合わせて新たな発見を得られる可能性もある。

Hadoopがビジネスにもたらすメリット

 リクルートの事例等を見ると、Hadoopによるバッチ処理時間の短縮は単純に教科書的なメリットだけではなく、以下のメリットを享受できる。

  • 何度でも要件(仮説)を変更し、トライ&エラーを繰り返すことができる
  • サンプリングに頼らないロングテール部分の分析できる
  • 開発サイクルが短縮できる

現在、重視されるビジネスのスピードの根幹を支えることができる可能性をもっているとも言える。

ビッグデータの活用例

 ここは様々な書籍や雑誌でも紹介されているが、本書での例を列挙すると以下のとおり。

  • 商品やサービスのレコメンデーション
  • 行動ターゲティング広告
  • 位置情報を利用したマーケティング
  • 不正検出
  • 顧客離反分析
  • 故障予測
  • 異常の検出
  • サービスの改善
  • 渋滞予測
  • 電力の需要予測
  • 風邪の流行を予測
  • 株式市場の予測
  • 燃料コストの最適化

これらの活用で、消費者の側にもメリットはもちろんある。例えばレコメンデーションでは、一定周期で必要とする消耗品等は時間軸でレコメンドすることで双方にメリットをもたらす。

データをつなげる

 政府や自治体などの公的機関が保有している統計データ等をオープンにし、皆でつなげて社会全体で大きな価値を生み出すために共有しようとする取り組みは「LOD(Linked Open Data)」と呼ばれる。あらゆる場所に存在するデータに対し、その量ではなく、それらをつなぎ合わせることで今まで得られなかった価値を得る、そうした動きが広がっている。
 公的機関と書いたとおり、対象とするデータも今まで企業が抱え込んでいたデータだけでなく、外部のデータも利用することで様々な分析結果が得られることとなる。残念ながら、日本ではこうした公的機関の情報公開は少ないが、時代の中でこうした動きが加速していくことは間違いないだろう。

ビッグデータ時代への備え

<ビッグデータ時代のデータ活用戦略>

 ビッグデータ時代とはいえ、企業としてこうした道を進むかどうかは企業戦略次第と言えるが、少なくともデータを軸に競争優位を目指すのであれば、自社データ以外にも外部データを含めたデータ活用戦略を策定する必要がある。そして、データを軸にするのであれば、「○○という目的のためにはどのようなデータが必要か」というところを明確にするために、○○が何かというところはもちろん明確でなければならない。その意味でクックパッドとアイディーズのデータ連携はわかり易い。クックパッドでの料理検索データ等と実際の食材の購買データを活用し、利用者に適切なレシピが提供できる一方で、スーパー側にとっても食材の購入目的の把握等が期待できるわけである。

<データサイエンティストの活用>

 いくらHadoopを代表するデータ処理基盤ができたからと言って、それを活用するのはやはり人間である。そのため、ビッグデータの活用には、価値を生み出す人材が必要である。具体的には、ツールを駆使して、膨大なデータから価値を見出し、それを分かり易く説明し、ビジネスに実装する人材である。これを本書ではデータサイエンティストと言っている。特に今後10年のIT業界にとって最も重要な人材となる可能性がある。
 専門的とは言わないまでも、様々な企業において、データを取り出し、処理し、価値を引き出し、可視化する能力は重要になるのは間違いないだろう。自由にデータを取得できる時代であればなおさらだ。

<データ駆動型企業への変遷と組織体制、企業風土との闘い>

 こうした分析が必要なことはわかるが、特に現在の時代の変遷期に於いては、その転換を妨げる組織風土や体制がある。「昔からこうしたきた」という固定観念や「アイデアの善し悪し」よりも「誰がそう言ったのか」が問題にされるようでは、なかなか戦略も立てられない。そのため、こうしたことを考える人材を企業内で育てて、教育していくことも重要になっていく。
 結果として、分析結果から得られた洞察をタイムリーにビジネスに組み込み、競争優位を導くことができる企業(=データ駆動型企業)となっていくのである。

所感

 新しい考え方というよりは、上記のとおり、BIがビッグデータの活用により進化を遂げるといえば非常に導入障壁も少なく感じる。とはいえ、やはり大きな課題はデータを分析する人材である。統計学の基礎はもちろん、一般的な分析手法に精通し、データの価値の見出す力=ビジネスの見出す力を必要とする。一朝一夕には身につかないものであるが、他社事例もそれなりに豊富なため、データ戦略を立てるならば、最初はそうした事例をベースにするのが最も効率が良いだろう。要は自社のポジショニングにマッチするデータを見出せれば良い。そのためにも、データ戦略は適切なマーケティング戦略を合わせて語られるものであり、そこが揺らいでいればデータ自体の価値も曖昧となるに違いない。データの活用は目的ありき、まさにそれに尽きるはずである。

ビッグデータの衝撃――巨大なデータが戦略を決める

ビッグデータの衝撃――巨大なデータが戦略を決める

一人一人がリーダーな組織を実現しよう

あけましておめでとうございます。今年も書評をベースに書いていきたいと思います。どうかまたよろしくお願い致します。

先日の書評の元となった本(「採用基準」)に感化されて、今年は「リーダーシップ」に焦点をあてて、自身も部下や上司も含め、それぞれがリーダとなりうる組織の実現に向けて努力しようと思います。

先日書いた書評以外にも同書では気になった記述が多々ありましたので、それをベースにそんな組織作りについて少し語ってみようと思います。

決断の後には問題が噴出する

 決断するのはその必要があるから。問題が決して発生しないときまでじっと待って結論を出せればよいが、それは決断ではなく結論でしかない。問題はあるかもしれないが、前に進まなければならないときが来たら、決断しなければならない。なので、十分な議論や準備よりもタイミングを重要視し、そのあとに問題が噴出することはある意味想定内として対処すべきである。逆に言えば、問題が噴出したから悪い決断だった、という結論にはならないはずだが、往々にしてそう言われることも少なくないので、リーダーはその覚悟と責任を持つ必要がある。
 組織としてはリーダにすべてを頼るのではなく、こうして問題が噴出することをメンバとしても想定し、一緒に解決することが重要になる。要は、その問題解決にも、リーダはもちろん、メンバのリーダーシップが問われることとなるわけである。

リーダーがなすべきシンプルな4つのこと

 個人個人が以下の事柄を意識していく必要がある。

  1. 目標を掲げる
  2. 先頭を走る
  3. 決断する
  4. 伝える

 これについては返す言葉もないという感じだが、本書の表現が実にしっくりくるので引用しておく。

目標を掲げ、先頭に立って進み、行く道の要所要所で決断を下し、常にメンバーに語りかける。これがリーダーの求めれている4つのタスクなのです。

 まぁみんなで先頭を走ることはできないじゃないかという反論には、適材適所だったり掌握する範囲は個々人によって違うので、同じ分野で同時にみんなで先頭を走るということではない。それは他の事柄も同様である。
 組織としては、各メンバがどこで先頭を走るのかということを決めるとそこから責任も生まれるのではないかと。

バリューを出す、成果を生む

 リーダに限った話ではないが、組織の大小あっても成果を出すことが重要なのは言うまでもない。しかもそれはある時から急にできるという訳でもないため、普段からの自身の行動や部下の教育にちりばめておかなければならない。具体的には、ごく短い時間単位で「どんなバリューを出したのか?」を問われ続けることで仕事の生産性を向上させていく。よく会議で発言しない人は必要ないというが、トンチンカンな発言をするよりも良いのではないかと思っている人がいるかもしれない。しかし、トンチンカン発言は、ある意味場を混乱させ、よりよい結論を導く助けになる可能性がある。何よりその場にいる人が本当に同じ方向を向いているかを再確認できるかもしれない。可能性の問題で言えば、何も発言しないよりはバリューを出している(可能性がある)わけだ。
 本書ではこんな事例が紹介されていた。「とりあえず最初は資料を読んでおいて」と言われて読んだ後、自分はそれによってどんなバリューを出せますか?、と。「資料は理解しました」ではバリューを出せていないことは明らか。。。そういった常にバリューを意識することが成果の重要性の理解や成果にこだわる姿勢が身につくのである。

会議でリーダーシップをとる

 出席者に限らず、誰に何を確認したり依頼したりするのかを決定しておく。具体的には次の事柄を対象者ごとに決めておく。

  • 議論したいこと 
  • 依頼したいこと
  • 調整したいこと
  • 決めたいこと

※それぞれ上記の事柄を誰にという軸で2次元表を作っておいて、会議の冒頭と最後に確認するとよいと思う。

これらの目標を時間内にすべて達成できるように話を進めることができるようにすることが会議のリーダーシップである。

自分にあったリーダーシップスタイルを決める

 リーダーもスーパーマンではないので、どんな分野でどのようなスタイルを目指すのか、というところを考える必要がある。とりわけ、一人一人がリーダの組織を作る場合、被ったスタイルと異なるスタイルをうまく配置した方がきっと生産性は高い。また、強引な手法が得意なのかそうでないのか、というスタイル(タイプ)も配置には重要なため、その辺り自分はどうなのか?というところは強く意識しておく必要がある。そのためには自分は周りからどう見えているか、という部分も聞いてみたりして情報収集しておくと良い。

1人のカリスマではなくリーダの総量が重要

 リーダーは一人いれば良いということはない。それは日本政府で考えればわかり易い。総理大臣にカリスマが現れればすべてうまくいくだろうか。そうではなく、その脇を固める人材もそれぞれの分野でリーダーシップが必要である。つまり、組織は1人のリーダではなくうまく配置された様々なリーダの集合体であるべきである。
日本の総理大臣が度々変わるのは、国民がカリスマを求めているからか、または総理を固める周辺の人間がうまくリーダーシップを発揮できていないということが言えるのかもしれない。
 次の文章はなかなか心に残るものだった。

一人でしかも短期に何もかもをうまくいかせてくれるリーダたる人を待ち望むこと自体が幻想だという事にまず我々が気づかなければならない。

変わる組織とはどういう組織か

 大企業病のように長く組織に巻かれていると中々人は変われないというが、組織としてどんな組織は変われるのだろうか。新しいリーダが必要、ある意味それは当たってるかもしれない。でも前述したように新しいリーダー1人では何も変えることはできないことは明らかなのである。であれば、いわずもがな変われる組織とは、自分たちで変わる意思のある組織と言えよう。本書では次のように表現している。

 変わることができるのは「問題を解決し、今までとは異なる未来を作り出すのは自分たちだ。それを率いてくれる新しいリーダがやってきた」と考える組織です。(中略)構成員の中にも「自分がこの現状を変えていく」という意識を持つ人が一定数いて、初めてその組織は変わることはできるのです。

リーダーシップは突然発揮されない

 これも前述したとおりなのですが、本書から引用で。

日頃からごく簡単なことで日常的にリーダーシップをとっていなければ、非常時に「自分で判断し、結果責任をとる覚悟をもち、指示を出せる人」、すなわちリーダーシップを発揮できる人には成り得ません。

最後に

 今年は、自身はもちろん、こういうリーダーシップをとれるメンバで構成される組織を意識した足固めをしていきたいと思っている。
 色々と書いてきたが、重要なことは優秀なリーダーが入れば万事うまくいくということではなく、メンバである自分もリーダシップを発揮しなければ、何もうまくいかない(可能性が高い)ということだ。その意識をメンバ一人一人に意識付けていくことが一つと、そのために自分が先頭に立ってそれらをやり遂げることだろう。(ここからすでにリーダーへの道は始まっているw)。逆に言うと「自分が変えなければ」と思いすぎて実行することは、周りのリーダーシップを奪うことにもなりかねず、うまくいく可能性が下がるとも言える。
 本書にも書いてあるが、「TPP問題では日本に不利な条件を飲まされる可能性があるから参加しない」ではなく、「TPPで日本に有利な条件を勝ち取るにはどうすべきか」を考えて決断/行動し、日本国民を率いていくことが真のリーダーシップなのである。そして我々国民一人一人も、そうしたリーダに任せるだけではなく、仕事という枠を超えて、日本国民としてのリーダーシップとは何か、ということを考えなければならない、そんな局面にいるということを意味している。
 そしてそれは一朝一夕に獲得できるものではないので、簡単なことから、しかも日常的に、を意識して日々バリューを出せたかどうかを韓げていく必要があるだろう。

追記

 正月の兄弟の集まりで、兄と組織の話をしていると、「リーダーに全員がなれるはずはない。どうしてもそうなれない人はいるんだ。」と強く言われて考えた。確かに今までは自分もそうだと思っていたし、蟻だって2割は働かないという。2:6:2の法則というものがあるわけだ。ただここに書いたのは、誰もが100人を引っ張るリーダーになれというわけではない。リーダーにはそれぞれの範囲があって、部下がいなくてもリーダーとして振舞うことは可能であるのではないか。リーダーというから怖気づくのかもしれないが「リーダーシップを発揮する」と言えばもっとハードルは下がるように思えなくもない。ただそれでも兄の言うように一定数はどうしても発揮できない構成員もいるかもしれない。でも、ではそういった構成員がリーダーシップを発揮するようにするにはどうすれば良いか、それを考えるのもまたリーダーの仕事であることに代わりはない。

採用基準

採用基準

リーダーとマネージャーに求めるものは異なる、という話

いやー、ブログをサボりすぎて困ってしまいますね(誰が?)

ちょっと仕事なんぞにかまけて、大事な時期に自分の成長をないがしろにするという愚を犯し続けているわけで、このままだと「こんなはずじゃなかった症候群」に陥る確率が大層上がっていてドキドキw。そんな中、2012年の終わりに大変良い本に出会ったので、リハビリがてら書いてみる。

採用基準

採用基準

 

 最近、「この人は真のリーダーだな」っていう人に仕事で出会ったりしたが、求められているものがどうも人によって違ったりする現実はよくあるので、その辺を整理していければと。

リーダーとは

リーダーとは「成果を出すことを目的として行動する」という原則に従っている。これだけ言うと「あぁそうだね」ってなるかもしれないが、ではマネージャーとは?とか言われて明確な違いが言えるだろうか。恥ずかしながら私は違うとは言えるが重なっている部分も結構・・・とか曖昧に考えていた。

1356145153*マネージャーとは

 本のまま引用すると

マネジャーは管理職です。求められる業務は部下の労務管理であり、組織内の個々の仕事の進行管理や品質管理、そして予算管理です。

 そう、言われてみれば誰もが「そうだね」と思うに違いない。ただ、私が前述したことにも関係するが、「管理に必要な役割」と「成果を達成するための役割」は明確に異なっていて、そこが曖昧になってはいないか、ということがこの本では指摘されている。要は、日本では「管理職はリーダーシップもあって然り」と考えられることが多い上に、「部下にはリーダーシップは求めない」という「マネージャーが疲弊する組織体」が出来上がる可能性が高いわけだ。

 「管理する資質」と「成果を出す資質」というのは混在可能なのかという疑問は実は誰もが潜在的に持っていて、どちらかに秀でていることは間違いなく、高い次元でどちらも同程度にできるというのは稀有な存在に違いない。両方できる人でも、どちらかは誰かに任してもう一方に専念すれば倍の生産性を発揮する可能性は限りなく高いだろう。そこまで組織を最適化するのは難しいのかもしれないが、チーム運営という面でも頭に入れておいた方がよい。

 さて、リーダは成果を、マネージャーは管理を、としてみたところで、組織にはそれ以外の役割を持った人もたくさんいる。それぞれに重要であることは間違いないが、問題はそれらが組織内では、リーダかマネージャーに紐付けられてしまうことである。

調整役

 いわゆるコーディネーター役である。特に日本ではこの役割は重要である。上司やステークホルダと事前に調整したり、今回はこちらが引くので・・・といった貸し借りでトータルで上手く仕事を回したり、といったことがやたらと上手い人は近くにいないだろうか。この役割は確かに重要だが、原則としてリーダーとは求めているものが全く異なる。管理職がこの辺に秀でていればそれはそれで良いと思うが、リーダーにこれを求めると矛盾が生じてしまう。なぜなら、リーダはあくまで成果を出すという原則に従えば、「今回は讓るが・・・」みたいなことを看過できるはずもない。誰かが不機嫌になろうが、怒られようが、成果を上げることにまっしぐらであるべきである。なので有能なリーダの周りにいるメンバは大変だろう。逆に調整役の周りにいるメンバは楽に違うない。ここで考えなければならないのは、調整役とリーダは目的が異なっているので、今必要なのはどちらなのか、ということを考える必要があるということだ。

世話役・雑用、命令役

 何やら幹事のようにすべての事柄を事細かくチェックして云々・・・というような仕事も「リーダ」という言葉が使われたりするが、「成果」ということに立ち戻って、世話役(実は雑用)なのではないか、というところも自問自答しておきたいところだ。こういうことが起こる原因をこの本ではこう表現している。

なぜ日本ではリーダーが雑用係になっていまうのでしょう?その理由は、日本人が「リーダーは組織に1人いればよい」と考えているからです。「1人のリーダが組織運営に必要なことはすべてやるべきだ」と考えているから、、リーダは本来求められている責務に加え、雑用まですべてを担当させれるのです。

この一文はとても重要な指摘をしていて、「リーダなんだからすべて俺がやらなきゃ」と思っている人が多いのではないか、と。かくいう私もその癖があるわけですが・・・。日本の組織体で働いているとこの感覚に馴染んでしまって、実は他人にも「お前リーダなんだからちゃんとやっとけよ」的なことを言ってしまうような悪循環が起きる原因となっているように思う。

 命令する人がリーダというのはさすがに勘違いしている人は少ないと思うが、言わずもがなである。

自身の組織で考えてみる

 さて、さらっと書いてきたことを自身の所属する組織に当てはめてみるとどうだろうか。いや、組織よりもまずは自身の感覚をチェックしておきたい。言われてみるとそうだ、と思うが、実は組織内ではそんな行動はとっていなかったりしないだろうか。自分はあいつをリーダという言葉を使って雑用を任せていないか、とか自分はリーダと言いながら成果を出すことを実は第1にはしていない、とか思い当たることはないだろうか。私は困るほどにたくさんあるw。
 重要なのはこういうことを自分の中でしっかりと意識して、自身のチーム内での立ち位置、そしてメンバの立ち位置/役割を明確に定義しておくことだろう。それはチームの誰にとっても幸せなことに違いない。なぜなら、リーダが何でもやってくれると思っているメンバと、リーダは成果を出すこと以外は任せる、と思っているチームでは役割にどうしてもギャップが出てしまい、ちぐはぐなチーム運営になってしまう。
 自身がリーダになったとき、自分の役割はこうなので、得意分野を利用して、管理は誰で、調整役は誰、ということが可能なチームはきっとうまくいくが、そう潤沢なメンバが揃うチームはなかなかないだろう・・・が役割を明確にしておくことが重要なことには違いない。

「リーダの癖に何もしない」という批判

「あいつリーダの癖に何もしなーんだよな」という言葉を聞くことがあるが、これこそがリーダとしての意識のギャップということは、ここまで書いてきたことで十分に理解できることと思う。

まとめ

 リーダとはなんなのか、もう一度問い直して、自身のあり方を見直しておきたい。自身はどこを目指しているのか、必ずしも一緒にいて楽しい人ではないはずのリーダとして生きるのか、それとも調整役として生きるのか、管理資質を活かすのか・・・。もし社会人経験に乏しいならば、今の組織をよく観察して、上司の立ち位置を図解してみたらどうだろう?笑い事ではないが、実はリーダは存在しない組織があるのかもしれないし、一番多いのは「何となくすべて兼務」という人がいる組織ではなかろうか。

ひとつ上の目標を簡単に見出す方法

今年、新人を持つことになった。個人的には昨年はいなかったので2年ぶりになる。今年は他部署の仕事をしているせいか、他部署の新人の教育担当なので若干のやりにくさは残るものの、1年目で教えることに大差はないし、部署の目標の違いはあれど、将来自社を背負っていく世代を教育するという思いに違いはない。そこでちょっと目標について少し。

世代によって異なる目標観

 さて、新人に対する教育目標やら立ててみたわけだが、10年目の私としてももちろん自分の目標を持たねばならない。新人に限らず若い世代と10年目では少し目標に対する感覚が異なる。それは当たり前と言われるに違いないが、「真の自分のスキルアップに関する目標」と「自分を含めて周りとともにスキルアップしつつ何かを成し遂げるという目標」の違いである。いわゆる、前者の目標は後者の目標の一部に組み込まれていることになる。とはいえ、自身のスキルアップもなしに周りにスキルアップなんて望めないし、ましては何かをみんなで成し遂げるなんてことはできようはずもないので、どの世代もいわゆる自身のスキルアップをないがしろにしてはならない。

自身のスキルアップを阻む理由

 スキルアップ曲線というものがあればそれは人それぞれの曲線を描くだろう。だが、多くは対数関数(指数関数の逆関数)のようになるのではないだろうか。いわゆる最初は勢い良く、以降は緩やかな上昇、もしくは停滞である(対数関数は停滞はしないけど)。これは最初は学ぶことも明々白々であるから、ひたすら打ち込めるものの、徐々に求められるスキルの学び方が経験によったりするものが多くなり、自己啓発をコツコツやれば、という類のものだけではなくなるからに他ならない。ましてや、現時点で自社にあまり関係のないスキルだとするとなおさらだ。さらに戒めも含めて言えば、10年もたてば忙しくなる。自分のことだけでなく、色々な管理や自分のこと意外のものが増えてくるので時間がないという言い訳めいたこともあるに違いない。

ロードマップの重要性

 こうして目標だけみると短期的なものに見られがちでどうしても停滞気味になってしまうので、スキルアップにはビジネスと同じようにロードマップを明確化することが一番手っ取り早い。1年後の自分も良いが、先に10年後の世界と自分の立ち位置を予見してみることから始めるわけだ。陥りやすい罠としては、自分の10年後だけを考えて世界が今のままの想定にしてしまい、あまりにも現実感がないロードマップになることだ。自分のスキルは時代に合わせていくことを考えると、時代の予見も重要過ぎる仮定になる。
 こうしたことを纏めて言うとこんな感じだろうか。「10年後になりたい自分になったと仮定して、そこから今の自分を見た場合に今何をすべきかを教えておげればよい。」 若干、バーチャルな感じがするもののやることは明確になるはずだ。未来の自分が今の自分に課すものが大きすぎるならば、未来の自分は過大な存在なので、そこを修正するしかない。後はその修正を受け入れるか、頑張るかの本人の問題。

ひとつ上の目標を簡単に見出す方法

 書きたかったことは実はここだったが、前置きが長くなりすぎたw。「ひとつ上の目標」という言葉を言われたことはないだろうか。良く聞く言葉である。「ひとつ上」って言われてもこれが中々難しい。それは今の立ち位置すらおぼつかない新人たちは特に感じるに違いない。逆に「ひとつ上」と聞いて、さくっとレベルを上げた目標を提示できる人間は先のロードマップが頭の中にできている証拠である。でも多くの若い人はそんなロードマップを思い描くことも至難の業かもしれない。新人によらず10年目でも同じ思いに陥ることは少なくない。
 そんな時に良い方法がある。目指すかどうかは別として「ひとつ上」には何があるのかを知る簡単な方法がある。それは、実際にひとつ上の人向けの本を読んでみることだ。例えば、20代の新人なら「入社1年目の教科書」のみを読むではなく、30代向けの「30代を後悔しない50のリスト」とかも読んだり、5年目なら「入社10年目の羅針盤」とかを読んでみると良い。この意図するところは、一歩先の世代が何に迷い何をすべきかというところが見えるところにある。以外と、20代で20代向けの本を読んでも、「まぁそうだね」ということが多く、心には響かないことが多い。それよりも、10年目の社会人は何に悩んでいるのか、ということを先読みして、そうならないよう、またはそこに早く到達するように今の目標を切り替えた方が精神的にも先を見透えているようで精神衛生上も良い気がしてならない。
 まぁそう思ったのは、私が少し前に「30代を後悔しない50のリスト」を読んで、あまり心に響かなかったけれども、「40代を後悔しない50のリスト」を読んでかなり心に響いた、ということと、昨日「入社10年目の羅針盤」を読んで、こういうことを若い頃から読んでいると(どれだけ理解できるかは置いておいて)何かが変わるに違いないと感じたからに他ならない。

まとめ

 言いたいことは、短期的な目標に目を奪われると徐々に悩みが大きくなるので、ロードマップを意識するということと、「ひとつ上」を見てみようということだ。ひとつ上を見ることにはもう一つ効能がある。自分の上司の悩みが見えることだ。ボスマネージメントの第一歩は上司の考えを知ることだ。それを早い段階で何気に感じると、自身の会社での生き方や行動の仕方も大きく変わっていくに違いない。